御霊験は
勝負の神様・入試の神様・猫神さんとして有名。
訴訟必勝・入学・選挙・商売繁昌・開運などにあらたかで、
多くの参拝者がある。
社殿には約一万体の招き猫が奉られ、
中にはジャンボ猫、地蔵猫、狛猫、魔除け猫、
さすり猫、猫の大仏、猫不動などがあります。
◎さすり猫はあなたの御身の箇所をこの猫におきかえ、さすることにより病魔退散、学力向上、必勝などのご利益があると言われています。
狛犬ならぬ「狛猫」が社殿を守っています
お松大権現は、有馬、鍋島、と共に日本三大怪猫伝の一つとして名高い。
時は天和、貞享年間(一六八一〜一六八六) 日本一社お松大権現御由緒 阿波国那賀郡加茂村は不作続きの年をむかえ、この村の庄屋惣兵衛は村の窮状を救うため、私有の田地五反を担保に、近在の富豪野上三左衛門よりお金を借り受けていた。
返済期限も近づき、丁度通りがかりの三左衛門にお金を返すが、通りがかり故(証文)を受け取っておらず、庄屋惣兵衛は間もなく病死する。惣兵衛の死後、その妻(お松)は幾度となく証文を請求するが渡そうとしない。 後にお金は受け取っていないと偽られ、担保の五反地までも横領される。思案の末、奉行所に申し出るが、お松の華麗な容姿に心を寄せ、食指を動かそうとする奉行越前。お松は奉行の意に応じなかった為 、また三左衛門からの(袖の下)を受け取っていた奉行は非理非道な裁きを下してしまった。お松は権力におもねる悪業に死を決して抗議する。それはことの真相を公にする(直訴)であった。 貞亨三年正月、藩侯の行列をよぎり直訴、その年の三月十五日、お松は日頃寵愛の猫(三毛)に 遺恨を伝え処刑に殉ずる。
その後、三左衛門、奉行の家々に(怪猫)が現れ怪事異変が続き、両家は断絶している。 正義へのかぎりなき執念に死をも厭わず貫き散ったお松さまの悲しい生涯、その美徳を偲び今も参詣者は絶えない。 現在、(お松大権現)と崇められ、その社殿には千万の招き猫が奉られている。
御由緒 「直訴」より抜粋
貞享三年の正月のことであった。 駕籠に前後する長い行列が続く。 そこをよぎる白い影があった。 行列はたちまち乱れ駕籠をとり巻く。 『無礼者!』と、声が飛び交い騒然となる。 すでに刀を抜き放った者もあった。 その時、『まて!』と、これを制する低い声があった。 この騒ぎで僅かに駕籠を開けた藩主の声である。 駕籠の前に白衣の若い女が伏していた。
慈悲を請い差し出す書状、それは正義と真実を賭した命の叫びであった。悲愴がにじむ顔容が妖しいまでに美しい。お松の姿におもわず藩主も息をのんでいる。 『吟味しておこう!』との藩主綱矩公の御声。 お松の目には涙が浮かんでいた。 行列はもとの隊形にかえり、何事もなかった様に通りすぎてゆく。 瞬時の出来事であった。
当時、藩主、大名への直訴は、その是非に拘らず死罪である。命にかえた訴えも取り上げられない事もある。ましてその場で無礼打ちに遭うこともある。 お松の身は即刻、徳島城下塀裏の獄舎に繋がれたが、処刑の日まで現在の保釈と言う形で役人監視のもと帰宅を許されている。
御由緒 「処刑」より抜粋
刑場は、現在のお松大権現社より西へ二百米の地点に伝説五反地があり、更に西へ二百米離れた加茂川が那賀川に合流する加茂の河原であった。
役人に伴われたお松は白衣の装束。結を解かれた長い黒髪は背に流れている。
村人たちは物陰から死出の別れを悲しみ見送る。すすり泣く声と念仏の声が入り交り聞こえる。
お松には子がなく、我子の様に猫三毛を寵愛した。 いつもお松の側を離れない。この事件の真相を見つめていた唯一の生証人であった。お松は、この猫に遺恨を言い含めたと言う。
刑場の設けられた席につくお松には、澄みきった静けさがあった。望月の淡い光芒を集めて仕置役人の構えられた刃が冷たく光る。
折しも川風が吹き荒び、お松の長い黒髪は、炎となって逆立つ。月の光が白衣のお松を浮きたたせ、逆立つ黒髪が“光背を持った美しい菩薩像”の様に役人達の目に映った。
菩薩の切ることのためらいが生じた役人たち。
しかし、断行せねばならなかった。役人たちの口々に念仏の唱和が流れだす。
刀は弧を描いて一閃。叫びなく猫にも情の一刀が振り下ろされる。
時に貞享三年三月十五日のことであった。
御神木の槇
古来より、『槇は魔除け、また、そこは神聖なる地を意味する。』と聞き及んでいます。 お松さま没後、今年で327年。当時、彼女の埋葬に関わった太龍寺の僧侶は、(儀)義理大権現の神号を授けております。 本来ならば、一族、先祖代々の(夫惣兵衛の眠る)墓所地が近くにあり、そこに埋葬されて然るべきところ。しかし、少し離れてこの地を埋葬地として選定されたのは、神格(権現)としての別格な取り計らいがあったものと想われます。 この墓所(埋葬の地)と二本の槇の木(推定樹齢300年以上)は、それぞれ2mと3mの至近にあり、推定樹齢とお松祭祀の時期は年代的にも符合し、呼応する物があります。 二本の槇は、本地垂迹の本地として、魔を祓い除き、神聖なる地を示唆しております。 当社では、この二本の槇の木を【御神木】として、注連縄をはり、大切にお護りしております。 現在、この埋葬の地には、層塔が建てられていますが、昭和38年に拝殿建立の折、本殿はこの地より遷宮されております。
伝説五反地
伝説五反地碑文
時は天和、貞享年間(1681〜1686)
加茂村の庄屋惣兵衛は、野上三左衛門より金子借用の為に担保に書き入れたと言う五反地。
金子は返済。
だが、その証文を受け取らぬまま惣兵衛病死。
このことが起因となり、証文を手にする三左衛門は、この土地を奪い取らんと画策。
やがて、この土地をめぐる争いは、奉行の理不尽な裁きにより、その因果と共に、庄屋惣兵衛の妻、お松の悲劇が、今も尚、伝承されている。
お松大権現 奉納歌に
邑はみな深き恨みの五反地の
貞享のあはれ今も知りいし
示拙庵主人
● お松大権現より徒歩3分
時代背景|江戸前期の出来事
お松さんが生きた時代、江戸前期は徳川綱吉により「生類憐みの令」が出されていました。
1682年(天和2年)
1683年(天和3年)
1684年(貞享1年)
1685年(貞享2年)
1686年(貞享3年)